つれづれ愚痴

どの程度走ったら”やった”ことになるのかな?
僕は今まで努力らしい努力、というか、
”あ~やりきった~”という言葉を心から口にした記憶がない。
もちろん心のない状態で口にしたこともない。
がんばる、という精神からはずいぶんと距離を置いてきたので

思うに、そのような感覚を得るためには、
少なくとも僕の場合、”犠牲”という観念がありありと感じられることが
必要なのかもしれない。
なにせスポ根世代。血と汗流せ~涙をふくな~みたいな。
もちろん犠牲を犠牲と思わない心理が行為には必要なわけではあるが‥。
楽しんでなおかつ強くなってという感覚は、ちょっと理解できない自分(損だ~)。
だから、さまざまなことにおいて余裕がない。
余裕があると、それは自分の慢心、心の隙と感じられてしまう。

例えば、レースに出る。エイドに到着する。食べ物をいただき、
十分なパフォーマンスを発揮できるように体力の回復を待つ。
そして自分にふさわしいレースを行っていく。

これは多分正しい考え方。
僕の場合、足を止めると、自分に負けたような錯覚を感じ、ヘロヘロなのに
ロクロク回復を待つことなくスタートし、結果玉砕

自分を把握していないゆえ、程度がわかっていないし、
そのくせ完成イメージだけは追い求めようとする。
この完成イメージが曲者で、実現可能でも何でもないシロモノ。

いろいろ考えて、疲れて、結局何もしない‥。
僕は妄想完璧主義者なのである。
そこらへんのマイナス面、少なくとも僕にとっては大いにマイナスと感じられるのだが、
それらを解消するためにも”走る”、という行為にいそしんでいるわけではあるが、
結局そこでも、結果を求めてしまう。

結果を求めてしまうのは、この際おいておくとしても、やるだけやったという感覚は
やっぱり欲しくて、じゃあやるだけやったとはどれくらい?ということになる。
そうすると‥。

堂々巡りの愚痴大会